2013年2月3日日曜日

アストル・ピアソラとの出会い


 
 
私がアストル・ピアソラの音楽にめぐり合ったのは雑誌『中南米音楽』主催のレコード・コンサートでアルゼンチンタンゴを聴き始めた頃に遡り、時は1968年ごろになる。このレコード・コンサートに取り上げられる古典タンゴの中に時折、レオポルド・フェデリコ、アテリオ・スタンポーネ、エンリケ・フランチーニ達の演奏するモダンタンゴの曲に強く興味を惹かれる最中、その中にひときわ特異あるバンドネオンを奏でるキンテートに心を奪われるようになった。その楽器にはエレキが通されていて、注意して聴いてみると普通のバンドネオンの音色とは明らかに違う特色に気ずいた。それに演奏される曲々のプレパレンセ(用意はいかが、、)、エル・アランケ(始動)、トリンフアル(凱旋)等の曲名も目新しく洗練されていて、それらの曲の演奏者の名前を心底に刻み込まれるのは然く自然に要に訪れた。新宿の日立ホールでのレコード・コンサートで聴いた“ロ・ケ・ベンドラ(来るべき事)”という名の曲。楽器を叩く音と唸り上がるバンドネオンの音色と各楽器の絡みと独奏が冴える編曲の新鮮な演奏に一瞬背筋に流れる鋭い衝撃を受けた。演奏が終わり耳にかすり聞こえてきたアストル・ピアソラ、、、の名前に唖然とする。この時からピアソラ音楽に夢中になり、当時、彼は日本では無名に等しくレコードの国内盤は無く、輸入盤を『中南米音楽社』からの輸入盤を手にして聴いていた。だが情報不足に飽き足らず探究心に燃えてピアソラのテーマの“用意はいかが”から“来るべき事”を期待すべく“始動”して“凱旋”を追求する如く2年後、無知、無謀にも拘らずブエノスアイレスへと彼の本物を聴きに行く旅に発った。待望のブエノスアイレスのマエストロ・ピアソラの活躍場所であるタンゲリーア・ミケランジェロに行くが、その頃の彼ピアソラは既に絶兆の人気頂点に到達していた時期で、この古風ある演奏の場は世界中のアチィースト達の関心の場所化となつていおり、レンガ作りのトンネル風のステージを見上げる観客席は超満員の盛況で予約の無い一人の来訪者には入場不可能だった。何度かそこに通ったが入場の機会も無く、その内ブエノスアイレスは夏シーズンに入りミケランジェロは閉店されて、ピアソラ・キンテートは避暑地マール・デル・プラタ市に演奏舞台へと移動してしまう。そして我が夢は無残にも彼方に消える、、、。この夢を叶える為に再度挑戦したのは1973年初期の頃、旅行の途中に軍事クーデターが起こる以前の政治混乱中のチリーに入国してしまい、其処から散々苦労した甲斐の後にブエノスアイレスにたどり着き。そして、遂にピアソラの公演情報を街のポスターで発見した。その1974123日の前日に入場券を購入する為に劇場へ行くとマエストロ・ピアソラは猛練習の最中であった。そこで窓口の係員氏に図々しく誰も居ない客席に入いれるか訊ねた所、快く許可をしてくれた。その時のメンバーはアントニオ・アグリ(V)、コントラバホ(B),オラシオ・マルビチーノ(G),ダンテ・アミカレリ(P)のキンテート他に特別参加のロドルフォ・メデーロ、ダニエル・ビネリ、フアン・ホセ・モサリーニ、(B)や呼び寄せられた多数の演奏者によるオルガン、フルート、打楽器を含んだオーケストラ編成だった。イタリーで新しく作曲したリベルタンゴ、メディタンゴ、ビオレンタンゴ等が披露された。こうしてマエストロ・アストル・ピアソラの夢の様な実演奏を目の当たりに見届けたが、感激の余り呆然としている内に演奏は終わって仕舞う。劇場の出口でアメリータ・バルタールとスサーナ・ルナルディを従えたマエストロと片言ながら多少の会話を交わす幸運にめぐまれた。彼曰く“俺は近い内に日本へ行くぞ”と周りの人々達を煙に巻いていた。あの時の情景は忘れがたい一生の思い出として今でも鮮明に回想できる。こうして叶えられた夢に満足したので軍事クーデターが何時起こるか分からないという不気味な噂の流れるアルゼンチンを後にした。
 

2013年1月23日水曜日

2013年1月22日火曜日

ピアソラとボルヘス

ホルへ・ルイス・ボルヘスの”Las cosas”の詩にピアソラが曲を添えている美しい音楽。途中で途切れるのが非常に残念であるガ、、、曲はサンチアゴに雨が降るに良く似ている。
ピアソラはどの様なタイトルをつけたかは不明である。

過ぎ去ったブエノスアイレス