2014年9月10日水曜日

軍事クーデター遭遇の思い出

 「サンティアゴに雨が降る」は1973911日に南米チリーで起きた軍事クーデターによって崩壊した「人民連合」政府とサルバドール・アジェンデ大統領の運命をドキュメンタリータッチに描いた映画である。監督・脚本は政治亡命したエルビオ・ソトーで音楽はモダンタンゴ作曲家アストル・ピアソラの作品が採用されている。

 主テーマ曲の「サンティアゴに雨が降る」はアグスト・ピノチェ―ト将軍率いる軍部が反乱を起こした知らせをアジェンデ大統領親派が地下ラジオから流した暗号である。

 映画は重戦車がキャタピラーの音も激しく進撃していくシーンで始まるが、このシーンや工場地帯の激しい銃撃戦を見て映画は映画だなと感じた。(当時チリー陸軍はこの様な大きな戦車を所有していなかつた筈である)。

 工場地帯の対ゲリラ戦の激しい戦闘場面に流れるアストル・ピアソラ作のテーマ曲はシーンにはそぐわないほどロマンチックに聞こえてくる。激戦地化した市郊外の工場地帯らしい町の風景もかなりチリーの雰囲気とはかけ離れているのだ。その上、脚本家ソトーはアジェンデを英雄的に美化しすぎている。大統領府内では彼はフィデル・カストルから贈られた自動機関銃で武装していたし、重装備で完全武装した100人余りの私兵もいた。民主的選挙で選出されたはずの平和主義者アジェンデは獰猛な正体を現したのだ。

 この事件は今年で丁度41年を迎えるが、私はその時期にチリーのサンティアゴから太平洋側の避暑地ビニャ・デル・マールに危険を避難するつもりで来ていた。事もあろうにクーデターはすぐ隣町の軍港バルパライソから起こされたのだ。今でもその時の生々しい現象を記憶にとどめている。

 二、三機の戦闘機が急降下体制で大統領官邸モネーダ宮殿に爆弾の雨を降らしていた映像を映す白黒テレビの画面を見ていた。その日の早朝はサンティアゴには雨ではなくロケット弾と機関銃の銃弾が降っていたのだ。

では当時の記憶を呼び戻してみよう。

 『その日の朝7時ごろ私はビニャ・デル・マール鉄道駅から一駅目のチョリージョ街の雑貸店二階に借りていた小部屋で目を覚ました直後に上階の住人のハンガリー系ユダヤ人に起こされたのだが…  何事かと聞くとゴルペ(クーデター)だという。この軍事クーデターはピノチェット率いる陸軍と海軍、空軍及びカラビネーロ(騎兵隊)と呼ばれる警察軍が合同でアジェンデ左翼連合政権に対して起こした軍事クーデターであった。かれこれ2ケ月前のサンティアゴは左翼政権の先導した労働者たちのデモや私立大学の学生による政府政策に反対するデモで市内中心地は混乱していた。その隙を狙うか如く一度目のクーデターは蜂起されたのだ。その時は装甲車一台が大統領官邸に向かつたが官邸前のバリケードと重装備に武装した護衛兵に阻止され為に不成功に終わった。

 しかし、何時か本格的クーデターの蜂起が予測されていた事で“やったか”と一瞬頭に横切る。テレビの映像はモネーダ宮殿を低空に飛んできた戦闘機の爆撃による黒煙がもうもうと立ち上る様子を映していた。

 既に近辺の街も何処からともなく現れた重装備の海兵隊があふれていた。アパートの下の街路にも戦闘着とヘルメット姿の数名の水兵が機関銃を山側の貧民窟に銃口を向けそろえていた。一人の若い水兵に近付いて何故銃口を丘側に向けるのかと訊ねると彼は余り近寄るなと平静な様子で警告しながら、あそこはゲリラ同然の集団の棲家が密集しているからだと早口に説明してくれた。

 ラジオがなにやら喚いているので三階の友人に尋ねたら外国人は近くの警察暑に出頭しろという勧告である。そこで、まず行動したのは大家さんに同行してもらい友人と彼のチリー人の妊娠中の奥さんと警察署に行く。出てきたのはカーキー色の制服姿も凛々しい若い将校軍人が我々と面接したが、その将校と大家さんがなにやらやり取りしていた後で私達はパスポートの滞在ビザと身分証明書の提示を要求されたが、不思議な事に何も聞かれなかった。“すぐに家に帰り、外出をするな”といわれただけで放免してくれた。 
 

 その日の夜遅く近くからダッ...ダッ..ダッと機関銃の掃射音が聞こえた。それは近くの川の堤防あたりらしく、翌日ゲリラ風数人の死体が見つかったという噂を聞いた。翌日は朝早めに起きてビニャ・デル・マール市からバスで20分ほどの港街バルパライソに出かけた。巷にはドイツ人かユダヤ人風の品の良い顔立ちの老人男女が数十名不安な顔つきで警察署らしき建物の前で行列をしていた。彼らも外国人出頭命令に呼び出された人達であった。
 往時のチリーにはキューバ、ボリビアやペルーの南米各地からアジェンデ政権を援助するゲリラ訓練された尖鋭な外国人雇兵が続々と集結していた。彼らはアジェンデが企んでいた内戦を後押しする為にフィデル・カストルが派遣した戦闘員であった。

 翌日12日。ラジオから戒厳令と午後4時過ぎは市民の外出禁止条例が発動されていた中に友人を探しにバルパライソ港に近い余り環境の良くない風俗臭い安ホテル街に急いだ。       

 パックパッカー旅行者I君が黄疸症状らしい様なのでサンティアゴの駐日本大使館の医師に診断してもらうために同行する約束があったからだが、戒厳令で全ての交通機関はマヒ状態で首都サンティアゴ行きは不可能であった。やっと見つけた友人I君をやむなく急遽に受け付けてくれる市内北側に設けられた海軍病院に連れて行く、数名の海兵隊が機関銃を構えて正面入口は厳重に警備をしていた。患者はすぐに診察室に通されたが付添はI君に寄り添う一人の女性だけ許され、小生は病院内に入る事は許可されなかった。そのまま彼と再会は出来ず、彼の消息は途切れたままになった。
 そうこうして居る内に所持金が底に着いてきたのだが、この騒動時で闇ドル交換所は捜査の手が入り闇相場は消滅していた。ともかく金の工面をするためにサンティアゴに行きを決行する。サンティアゴ市の下町から東へ行くとアンデス山脈を目の前に迫る高級住宅地にたどり着く。広大なアジェンデ大統領私邸近くのアポキンド街のしゃれたマンションに盲目の年老いた伯母さんと住むチリー人の友人ラウルを訪ねた。

 彼に数日間宿泊を頼んだら快く承知してくれた。小生の寝どころ用にソファーを用意してくれた。メルクリオ新聞の広告にチロエ島のフリーゾーンで買ったポータブルラジオとあまり調子よく動いてくれないカセットレコーダ―を売りに出したら、すぐに一人の青年がそれらの品物を見せてくれと尋ねてきて商品を買ってくれた。ただし幾らで商談をまとめたのか記憶にない。その金でブエノスアイレス行のバス乗車券を支払った。

 反乱側についた外国人や政治犯容疑のブラックリストに載るチリー人達が逃亡するのを防ぐ為に空港や国境の軍施設できびしい監視の目が張り巡らされているとの忠告に従い、私は移民局へ行き職員の一人であるラウルの若い叔母さんに助けてもらい無事に移民官から出国許可スタンプを押してもらった。これで安全は確保されたのだ。
 外出禁止令は夕方6時になり市民は駆け足に帰宅する姿が見られたサンティアゴ市内のアルマス広場やディセポロ作のタンゴで有名な「メルセー寺院」の前などを横目で戒厳令下の町を通り過ぎ、バスに乗ってラウル宅に急いだ。  

 平和そうな町の様子の裏腹に実際にはクーデターが起きた日からアジェンデ派戦闘員たちは地下に潜った。秘密ラジオ放送局から「サンティアゴに雨が降る」の暗号メセッ―ジによりゲリラ戦蜂起を開始したのだ。夜間の暗闇を利用して大統領府モネーダ宮からわずか2㎞ほどの近距離にあるキンタ・ノルマル公園の隣にあるサンティアゴ国立大学や市の南サン・ベルナルド地区の工場地帯では映画シーンその物のゲリラ戦に軍隊が投入されて激戦が繰り広げられたらしい。また、国立サッカースタジアムには政治犯や極左翼親派と見なされる人物達千人余りが逮捕収容されていた。その中には反戦歌を歌うフォルクロール歌手ビクトル・ハラもいた。挙句の果てに外出禁止時間外の町をのこのこ歩いていた日本人パックパカーが一人ぶち込まれて居たのを噂聴きしたのだが(大使が釈放するように毎日スタジオに通ったという噂も聞いた)。 

 ここでのんびりしていると何かのトラブルに巻き込まれかねないので早急にチリーを離れる決心をした。封鎖された鉄道駅の隣にあるマプチェ・バスターミナルからバスでチリー国境のアンデス山中にあるトンネルを抜けてアルゼンチン側の都市メンドサに向かつた。
 途中数か所の軍検問ではバスを下ろされる命令に従いパスポートをチェツクされたり、なにがしかの質問に答えたり、特に不審者扱いされずに済んだ。まだ雪が覆われたアコンカグア峰を左横に見ながら、アンデス山脈を下るバスは8時間余りでメンドサの町に滑り込んだ。

  やつと地獄のようなチリーを脱出したのだと安心感に浸つたのである。時は197311月、南米の初夏の頃であった。』

 *    
 そして、時はたち、数十年後(最近)バルパライソで知りあつた日本人数人の一人I君のブログを偶然発見したが今日まで彼の消息を確認していない。I君のブログ文の一部を下記に載せたので参考にしていただきたい。

 【9月11日(火)・・入国61日目(交換義務金1220ドル、所持金1260米ドル)・・今日は、福岡さんが知っている医者(サンチャゴ)のところに行く予定だ。小便をしに廊下にでる。一瞬たじろんだ。いつもは誰もいない、狭くて薄暗い廊下に、人が多勢いる。彼らは一斉にぼくを見た。誰もなにもいわない。トイレから帰り際、彼らを観察した。
 男たちは十数人。毛布をひろげて、そのうえでカード遊びをしている男、カーテンの脇から外を覗いている男、携帯ラジオを耳にあてている男。灰色の作業服に長靴の男たち・・・。
 彼らが、なぜここにいるのだろう。突然、『バーン』と爆発音が聞こえた。男たちは、一瞬ひるんだ後、窓からこっそり外をうかがっている。

 部屋に戻っても、彼らのおびえた目つきが気になる。
ガラス越しに外を覗く。ドラム缶にゴミをくべて暖をとっている労働者も野菜を少しのせた荷車を引っ張っている少年の姿もない。新聞売りの『コレヒヨ、コレヒヨ』の呼び声もなければ、石畳の鋪道を掃くじいさんも会社や工場に急ぐ人々もいない。ときたま動いていたクレーンも長いアームをたれたまま。すべてが止まっている。福岡さんは、何時に迎えにくるのだろうか?

 どのくらい寝たのだろうか? ドアが激しく叩かれた。尾崎とグローリア、セシリアも一緒だ。
「ゴルペよ」

「ゴルペ!」

「何をぼんやりしているんだ。クーデターだ。クーデターが起こった」

やられた。ついに起こったか。まだ大丈夫だろうと心の底のどこかで楽観していた。

「急いで!」

「どこに行くの」

「プエルトよ」

 「サンチャゴで起こったんだろ。ここは安全じゃないの」

「なに言っているんだよ。クーデターはこの街から起こったんだぞ」

「いま何時?」

「10時40分」

「急いで、貴重品だけまとめて」

「もうすぐ戒厳令がひかれるだってよ。誰も町を歩けなくなる」

 彼らの慌てぶりは普通ではない。クーデターだ。殺し合いだ。街角でいつ撃ち合いが始まるかわからない。彼らが、ぼくを呼びに来たのもかなり危険な行動のようだ。ホテル・ヘラスコにいたら町の店はすべて閉鎖のため、食事に困る。どこかに連れていかれてもそれっきり、誰にもわからない。人殺しだって頻繁に起こる。いま安全なのはできるだけ大勢と一緒にいることだ。】 (石原記チリー28項から)

 *      

  図らずも同じ様な境遇にいた二人の体験の違いは明らかだ。全くかけ離れた境遇に出合っている。私は危険な場面にはほとんど遭遇していない。私は彼らのグループから何時も一歩離れて交際をしていたから・・・
 ただし、ある程度は知り得た現地の巷の噂として、また新聞記事で知った情報は彼らに提供はしていた。クーデターが突発した日には情報をある程度は得ていたが、やはり突然で驚いた。そこで考えたのはいち早くチリーから脱出する事であり、実際に行動に移した。

 この文を読んだ人はどうしてそんな所に“のほほんといた”のだろうと思うでしょうね。ただ通りすぎのつもりだった。アルゼンチンに行く為にね。当時のチリーはサルバドール・アジェンデ大統領が統治する善良な社会党などの印象が強いが明らかにキューバ―に援助された共産主義国であった。そこへ何も事情のわからない外国人が入り込んだ。
 そして、外国人旅行者に毎日滞在費として高額のドル交換義務を強制していた。これが果せないためにずるずると蟻の巣に落ちたようにもがいているうちに、起きるべきして起きた軍事クーデター。私は冷静に考えて、クーデターにより倒されたアジェンデを美化しない。共産主義の汚い人民を騙す手段をそこで見た。ピノチェットの軍事弾圧も非人道であったが...


完 

2014年9月6日土曜日

真夏の夜の夢

http://www.youtube.com/watch?v=s6aFjlF72CI
この話は真夏の真夜中のブエノスアイレスの出来事。
 パイカ、グレラ、ペルカンタ(全部キャバレーなどで働く女性)にまつわるほんの他愛の無い経験から、、、

 彼方の日、恋愛小説の主人公の様な無産階級の女達が居た。夜は、彼女達に侮辱的魅力のある名前をつけた。パイか、ロカ、ミロンガ、ペルカンタ、或いはグレラと…

 彼女等によくあうのは、明け方、チュウロとココアの朝食をとつて居る時だつた。コリエンテス通りのコンフェテリア「べスビオ」で。その時間に、彼女らの働く時間が終わるからだつた。チャンテクレル、マラブー、或いはディビダボで...

 南のバラカス地区のマダム・ボバリーのいかれた衝動で、彼女らはタンゴに人生を賭けた。ある女はバンドネオン奏きに恋をして、その賭けを勝ち取る。他の女等はにとつては敗北も沢山あつた。例えば、その同じキャバレーでご婦人達のクローク係りに成り下がり...確か、彼女らはみんな一緒に居なくなる。昔、目に刺青をしていて、今は消滅した少数民族のように。。。

 このタンゴは、そんなグレラ達の最後のひとりを語る者。ブエノスアイレスの夜が明けたばかりの中心街で、幽霊の様に決定的に非現実的な彼女の足取りを発見した。そこでこうして私は物語る...
【ブエノスアイレスの夜は長い。私はある夜、いや真夜中3時頃、タニアが経営していたタンゲリーア「カンバラチェ」を出て直ぐそばのコルドバ大通りのバス停留所で深夜バスの来るのを待っていた。そこにはすでに一人の女性がいた。ここの国の女性にしては小柄で薄化粧で極普通の洋装をした彼女の横顔をちらりと見るとかなりの美貌の持ち主であった。

 ただこの時間に女性一人でバス停にいるのはどこかのバーかキャバレー務めと思われるペルカンタ風の女性だろう。中々来ない深夜バス、そこへ一台のルノーが急ブレーキの音をけたたましく、彼女のすぐ前に停車した。酔いどれの男がガラス窓を下げる。と男はかの美女に車に乗れと小声で言い出したが彼女は相手にしない。男はだんだん声を荒らわにしつこく彼女に迫る。そこでこの私のした事に、ついいたたまれずに下手なスペイン語で“俺と居るんだ”といえばと伝えると彼女理解した様子。

 そこへやっと深夜バスが止まる。男はあきらめてバスの横を闇の中を走り出した。バスの前ドアーから彼女が先に、後を追うように俺も乗る。確か一番前の右側に何気なく座る。バスはいつの間にかリバダビア大通を東方面のエル・オンセ駅に近ずいていた。

 間もなくどこかのバス停に止まると、例の女性が前の乗降口に向ってきた。ふつうバスを降りるのに後ろのステップに向かうはずだが、どうしてだろうと一瞬彼女を見上げると、Gracias(ありがとう)小声で言うのに気が付いた。
 え、と戸惑う俺に笑顔を見せると闇の中に消えていった。この話はただそれだけ、、、のことです。】

クンパルシータの秘密

ラ・クンパルシータの誕生の秘密

    『シ・スピエラス(あなたは知っていただろうか)』

 この曲は世界中に史上もっとも普及したタンゴであるが、この曲に作者ヘラルド・マトス・ロドリゲスに無断でパスクアル・コントウシがエンリケ・マロニと共作の詞を付けたものである。
 詞の内容はある男が過去の愛を回想するのだが、当時全っく忘れらて仕舞っていた曲を世に反響を及ぼし、一躍有名にしたのは他でもない、この『シ・スピエラス』の詞なのである。...

 『ラ・クパルシータ』は1917年にヘラルド・マトス・ロドリゲスが作曲、ロベルト・フイルポがモンテビデオにあったカフェ・ラ ・ヒラルドで初演奏し、一躍有名になつた様に思われているが、マトスの依頼でこの曲に手を加えた本人のロベルト・フィルポの証言を述べてみよう。
 


 時は1916年、『私はカフェ・ラ ・ヒラルドで演奏していたが、ある夜、数人の学生風の若者達が訪れ、学生仲間のマトスの依頼で来たと、私に一曲の『マルチータ(小マーチ)』の楽譜見せながら、その曲の編曲の依頼を申し出た。
 


 楽譜は第一譜の部分には他少のタンゴらしい2/4拍子があるが第二譜部分には何も無い。そこで1906年に作曲したが全くヒットしなかった私の自作タンゴ『ラ・ガウチャ・マヌエラ』と『クルダ・コンプレタ(完全な酔い)』、ギセップ・ベルディ作オペラ『ミセセレ』の一部を混ぜて挿入して『ラ・クンパルシータ』に仕上げた。
 


 その夜すぐにバンドネオン奏者バチチャ・デ・アンブロッシオとバイオリンのテット・ロカタグリアタッ達とトリオで演奏したところ、観衆にはまずまずの反応があった。しかし、私がこの曲の共同作者として登録する様に提案をしたのだが、マトスはそれを拒否した。彼はは礼讃され得意満悦に世を凱旋するが、やがて時が経ちこの曲は世の人達から全く存在を返り見られぬほど忘れ去られて行った』。
 


 しかしながら、フィルポの編曲はこの曲を世界的に普及させて、有名にさせた功労者と絶賛されるべきだろう。
 


 その後エラルド・マトス・ロドリゲスは、この曲『ラ・クンパルシータ』の版権をリカルディ社の代理店ブレジェール兄弟商会に売って仕舞う。
 そして、1924年6月6日にパスクア・ コントウルシとエンリケ・マロニの活動領域である旧アポロ劇場にてレオポルド・シマリ指揮下の劇団による出し物公演『キャバレー』演目の二幕目に歌手フアン・フェラーリがパスクアル・コントウルシとエンリケ・マロニらが共作した『シ・スピエラス』の詞が初めて、『ラ・クンパルシータ』に盛装付された詞を歌う。
 だが、この新しいタンゴと女優ルイサ・ モロテッーの苦い風刺歌『ラ・ミーナ・デ・フォード(フォードの女)』の歌を持っても月並みな出し物はこれらの救い手の差出しにも至らず、この劇は短期の内に終演となる。
 しかしながら、このタンゴ『シ・スピエラス』はあの魔術師である、タンゴカンシオンの最高表現者カルロス・ガルデルにより歌われ、以外な大ヒットとなる。この歌手が歌った結果、この曲の音楽価値が再評価され、『ラ・クンパルシータ』は最高栄誉を獲得する踏み台に近ずく栄光の道を進むのである。
 一方のヘラルド・マトス・ロドリゲスはパリでカナロの口伝えによりこの事態を悟り、若いウルグアイ人弁護士カラタジュー氏の援助を介してブレジェール兄弟商会を相手取り、この曲のマトス・ ロドリゲス自身の作詞『ラ・クンパルシータ・デ・ミ・セリア・シン・フイン・デ・スフィラ…』以外の曲の演奏権利無効施行の裁判を起こす。
  自作編は1926年11月9日モンテビデオ国立図書館に登録され、ロス・プロビンシーノス楽団により演奏、ロベルト・ディアス歌によりレコード化されたが全く普及なかった。パスクアル・コントウルシはパリから病身での帰国後、1932年3月16日に果かなく世を去る。彼の未亡人イルダ・ブリアーノとエンリケ・マロニーはヘラルド・マトスの版権独占に対して、この曲の共作権利の正当性と損害賠償訴訟を起こす。裁判は長引きマトスの・ロドリゲス死後、1948年9月10日、フランシスコ・ カナロは調停仲介者としての役を引き受け、双方の権利を裁可に委ねた。
追記:文章はTodotango を参考にした。

幻の録音


クアルテート・デル・タンゴ
参加演奏者:デレクター、バンドネオン:
アストル・ピアソラ
ヴァイオリン:ユーディ・メニューイン
ピアノ:ゲイリー・グラフマン
コントラバス:ダヴィ・フリェセン
Cuarteto del Tango (Grabado en Paris 1981?)
Director y Bandoneon:Astor Piazzolla
Viorin:Yehudi Menuhin
Piano:Gay Graffman
Contrabajo:David Friesen

演奏曲名

アディオス・ノニーノ (Adios Nonino)
http://www.goear.com/listen/4e18361/-

コントラバへアンドContrabajeando

ロ・ケ・ヴェンドラ(Lo Que Vendra
http://www.goear.com/listen/e4d31cd/lo-que-vendra-astor-piazzolla

ルンフャルド (Lunfardo) 

クアルテート・デル・タンゴ演奏はまずピアソラ作品4曲をUPします。この録音は1980年代の初めパリで録音されたものらしい。なぜ、らしいといいますとピアソラ作品のデータ上に記録がありません。幾つかの伝記にもインタビューを読んでもクーリ氏のデータにも明記されていません。ピアソラはクラシック・ヴァイオリン界最高峰奏者ユーディ・メニュインとは70年代にイタリーでユネスコ協賛のTVプログラムに別々のジャンルで出演している記録が有ります。
ところで、この録音を手に入れたのは90年代初めボゴタ市のある民芸市場内の販売スタンドでした。要するに何処からか手に入れた音源をカセット録音して狭い店に並べてある。そこにあつたピアソラの名前を目にしたので店主の青年に尋ねたらこれはパリのFM放送された番組をカセット録音したのだとのコメントでした。 
 クアルテート・デル・タンゴの演奏は全部で14曲あり、フリアン・プラサ作曲が2曲。後9曲は伝統タンゴ、後の1曲はヤコブ・ガーデ(Jacob Gade のジェラシーです。後の曲はMP3化で来き次第投稿します。