2015年2月10日火曜日

ホルへ・ルイス・ボルヘスのパレルモ


ホルへ・ルイス・ボルヘスのパレルモ

幻想的な短編作品を書いた小説家、タンゴの詩人でもあるホルへ・ルイス・ボルヘスは1899824日にブエノスアイレスの中心地ツクマン800番地に生まれた。まもなく家族と共にパレルモ地区セラーノ2100番地に移り住む。そしてボルヘスが描いたパレルモの街とは...

〔パレルモは貧困に無頓着だった。イチジクが影をおいかぶさる壁の上;
平凡な日々に控えめな成り行きのバルコニーの群;
日暮れ時に破裂する落花生の角笛がきえうせ;
つつましい家々は平凡なマンポステリアの鉢もなく;

荒廃したサボテンの群のかんむり

西向かいの 夕暮れの郊外

行き止まり道の埃はなくなりはしない;

そこには鉄道舎の場所 リュウゼツランの枯れ木 

荒れたパンパから ひそかに吹きはじめるそよか風; 

あの一軒の廃居しかかる背のしくい家、鉄柵、低い窓、

時々 -影とともに、時には黄色いござの後ろ- 

ブエノスアイレスの孤独は 生れ見える、
しかし、 見える人間の存在も無い、 

そのあと; 
マルドナードは、 
乾燥したような黄色い深い溝を、 

チャカリータ墓地からあて先も無く背伸びしながら、 

激流の崩れた外ぶちに死ぬほどの喉渇きの激しさに襲われて、

消えそうな農夫小屋の淵に牛を追いたて、 

50年後、その深い不そろいな溝か滅る、 

そして、 空が明けるはじめる; 

柔らかい牧草とたてがみ、いななき、駆ける馬のむれ、

巨大な、高い壁と、それは穏やかな流れを鋼のレールが取り巻き、歩道と直すぐな土手、休息の為の荷車の梶棒、あの酷使された悲しき特異な俗事をぶちまけた労働者達の怒りの境界線、移動中の長い連結の貨車の境界線、その境界をふさぐ、その後ろには、腹立たしく広がる急流。この様に寂しいパレルモ; それはたった今 

ずる賢いカフェティン「ラ・パロマ」の隣で、

愚行溢れる道端に交代され、

果てしなく隙をつかれた遇直なまでの孤独;

埃まみれに混ぜあい切りこまれた平べったい場末、

刑務所の建物と北の赤い墓地との奥くの間、塗りなおされる事も無く; 

何かの残骸の発端に、わびしさと攻撃の街角、 

人目を偲んだ男達が口笛で呼びながら、

幾つかの行き止まり路地の脇をたたきおい散らさんとする、

かの街区は最後の街角のはて。〕

 ボルヘスが1921年の時にスイスから戻って来たパレルモは、もうこの様な場末の面影も、遠くに見渡すパンパも消えうせてなくなっていたはずだ。

近くにはカルロス・ガルデルがデビューした高級キャバレー・アルメノンヴィルやパレード・グラセーなどが出現し、やがて歴史の果てに消えていくと、この街は近代化の波に押し寄せられて、平屋の住宅か中級住宅ビル群が立ち並び始め、北側にラプラタ河岸まで森林が生い茂る広大なパレルモ公園。南方向へは中階層の住宅ビル群が大通りの両傍にチャカリータ墓地の方に立ち並ぶ。西側には郊外へ向かう鉄道線が通過する。市の中心へは地下鉄を利用すれば半時間もかからない。

 小生はブエノスアイレスに滞在した時期に地下鉄B線に乗り終点フェデリコ・ラクローセの前にあるチャカリータ墓地にカルロス・ガルデルの墓標を訪れたのだが、着いたのが午後5時過ぎであった為に墓地の門はすでに鎖されていた。仕方が無いので5Kmほどの東方向にあるパレルモ街区まで歩く事にした。ここは街路に面した5階建て建物が立ち並び階下はパン屋や肉屋、雑貨店などに占領された中級マンションが大通りの両側に何処までも何処までも続いていた。パレルモの町に着いた頃は夏とはいえ日暮が迫りマンションの窓辺には電灯が灯り始めていた。後日、ポンページャ街区のボエド通りを南に行った時にリアチュエーロ河に渡されたアルシーナ橋の手前の踏み切りで、長い連結の貨物列車がゆっくり、ゆっくりと何処かに向かい進んでいく情景を見た。
また、ある日のたそがれ時、市の南西に位置するマタデーロス街区に迷い込んだ。そこは生臭い牛の血の匂いが漂う、高いレンガの壁に囲まれた堵殺場がある。それらの壁が見える脇の通りにあるアルマセン(雑貨屋件飲み屋)に酔いしれている堵殺場の労働者達の姿が出入りする光景が残る場所だった...。

こうしてブエノスアイレスの街中をあちこち彷徨い歩き果ては今は観光地化したカミニートがあるボーカ地区にも迷いこんでいた。当時、カミニートは寂れていた。そこへは入らずにリアチュエーロ河が急カーブした場所。その名“ローチェの曲がり角”を更に進むとペンキ塗装の無い板張りの家々が現れる。そこにも小さなアルマセンがあったが夏の陽ざ日が強い午後の時間には客の姿は見届けられなかった。また来た道を戻り、カミニートの入り口を左側に見ながら歩いていくと「キンケーラ」のボカ美術館がある。ペドロ・デ・メンドサ大通りをニコラス・アベジャネーダ鉄橋が見える方へ、更に行くとタコの茹で料理などの魚介類を出すタンゴに出て来るようなイタリア風カンティーナ(居酒屋件料理屋)が数件軒を並べている。ソリス広場を更に先を進むと鉄道廃線路を横ぎると数百トン級の廃船が停泊したリアチュエーロ河口の廃止された旧港に出る。もうここまで来ると建物も廃墟のようなたたずまい。カンティーナにネオンが灯る夜になれば路上の様子もただずむ人影も怪しい雰囲気になる。この辺にはまだボルヘスの描いた場末があつたのだ。

 

2015年1月5日月曜日

タンゴが発祥した頃のブエノスアイレス


19世紀初め、ヨーロッパが貧困とコレラや疫病から逃げ出したイタリー、フランスの庶民は南米アルゼンチンと小国ウルグアイに流れ辿り着いた。

彼等はブエノス・アイレスの港町ボカやバルバネーラ街で祖国の音楽やダンスを随一の娯楽としていた。

 

タンゴが発祥する初期の頃。

あるカフェティンの店沿いの石畳の歩道通り、

歌と酒のパジャーダ(騒ぎ)が一時終わりについたその時。

 

薄暗いガス灯の灯火に浮かび上がる様に

店の外に出てきた一人の常連の不良仲間が

石畳の歩道に歩み出た時、

その場に起きた嵐の如き激しい喧嘩争いに巻き添えの末、

グループの何者かに鋭い一刃に刺され影の如く崩れ落ちる。

 

その男の名はハシント・チクラーナ。

いや、誰も知らない輩だったかもしれない。

この詩は貧困と異口同音のポンチョ(外套)に隠された

犯罪行為や盗人がカモフラージュした所の

ブエノス・アイレスやモンテビデオの

社会の底層に属す下層階級の人物達の

憎しみ抱く者や喧嘩好きな輩達の陰謀や

欲望により活気ずけられた普遍的リリシズムの失敗をも飲み込んだ世界。

 

それは後進的なリオプラテンセ芸術を描写する産物その物。

それは詮索好きなクリオージョ、

ずる賢い無精者、

優秀な怠け者達のグループ、

“ミーナ(女)”を絞り取る腹黒い売春宿のペテン師達の息ずく世界。

 

いわゆる場末の歌手達とパジャドール達の活躍が引き続く時期の事で、

港町、下町、そこのカフェティンの環境に育まれたミユージック、

初めの頃は歌詞も無く歌われない。 

 

薄暗い街角の広場や歩道脇でバンドネオンやギター、

時にはフルートが混じり奏でる単純な曲に合わせて

男同士か怪しいタイプの女性と踊る不純なダンスが幅を利かせていた。

 

それは所謂、上流階級からは隔たれ蔑み評価されていた場末の音楽。

そこに“冒険好きのトレードマーク”その物のハンカチを

なびかせながら相棒のギターを脇に抱えた若き“アバストのモローチョ”

も偶然にそこに居合わせた時代。

 

さまざまな音楽的ジャンルの中にタンゴが産声を上げたばかりの頃の事である。

社交サロンと闘牛で浪費するカチャファス(やくざ者)、

カフェ・パウリンを遠巻きに立ち尽くす退屈した連中、

粗野な眼差し流しつける物悲しき輩、

空に近いワインをぐい飲みするガジェーゴ、

急ぐことなく、

のんびりと物思いに耽け狭い窓辺に肘付きマテ茶を飲む隣人、

旨そうなアサードと振る舞い酒が常連達を呼び寄せる殺風景な中庭、

カフェティンのトロバドーレスとバイロンゴ達、

人目を引く喧嘩事を解説する輩、

それは日毎の不幸事の歌い手、

場末から湧き出した歌い手、

ごろつき達に無言にも賛意され、

ささやかな人情にもらい涙、

さらに高ぶった夢想的抒情詩が随一の光の中で舞う。

 

そして,好感、微笑み、不屈の、“アバストのモローチョ”はこのやり方で市場のナポリ人達の前で歌う。

 

あらゆる種類の歌い手達を招集させる純銀の流れの様な溢れ出る声を聴きながら、

この様なカフェティン、

不思議なカフェ・オ’ロンデマン、

そこはモローチョが好んだ舞台。

 

リオプラテンセの場末精神と強い混迷芸術の故に生まれ出てきた魔術師的歌手“アバストのモローチョ”カルロス・ガルデルのデビユー時代をボルヘの詩“ハシント・チクラーナ”のミロンガからのモチーフにより詩風的に回想した。

 

『エル・ボヘミオ記』


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2014年10月10日金曜日

タンゴ「ミ・ノーチェ・トリステ(わが悲しみの夜)」の誕生


タンゴ「ミ・ノーチェ・トリステ(わが悲しみの夜)」の誕生

 歴史的本格的歌唱タンゴはサムエル・カストリオタが1915年(楽譜登録)に作曲した“リタ(女性名)”にタンゴ詩人パスクアル・コントウルシが1916年半ばごろ“ペルカンタ・ケ・メ・アムラステ(俺はあの女に捨られた!)”...の詩を付け「マル・デ・アウセンシア(留守の悪)」の題を付け歌い始めた。

 同じ年のある日、サン・フアンとパスコに店構えのカフェ『エル・プロテヒード(お気に入り)』にはピアノ弾きのサムエル・カストリオタ、バンドネオンのアントニオ・グッマンー、バイオリン弾き、アティリオ・ロンバルドのトリオがレパトリトーのタンゴ“リタ”演奏により活気ついていた。

 この曲の楽譜は器楽曲のみでピアニスト・カストリオタの友人ニコラス・カプララ(他の説はやはり彼の二人の友人アマデオ・ぺッサーとアルマンド・ラフェット)に捧げられたもので、フアン・バレリオ商会から楽譜は発刊されていた。

 この表紙には美人が考え込む絵がデザインされ、何か思わせぶりなタンゴの世界を想像させられる。このカフェのステージにパスクアル・コントウルシ(1888年生まれ)が登場する。

 彼は、詩人で歌手、ギター奏者でもあり、年来から他人の音楽にその作曲家の同意ありなしに関わらず、彼独自の歌詞を創作してしまう習慣を持つ輩で、1914年半ばから1917年の初め頃に彼がモンテビデオの下町に存在する、タバコの煙に曇りがちなキャバレー『ムーランー・ルージュ』と『ロィヤル・ピガール』で出演し、演奏ごとに何がしかのチップを受けて居た頃はこの“タンゴ”は観客に程ほどに受容れられていて、歴史の鈍い幕が下ろされる場面である。

  所と日が変わりブエノス・アイレスのエスメラルダ劇場で『エル・ソルサル』ことカルロス・ガルデルがラサーノとの二重昌でデビューの際の舞台の中休みに“その作詞”を手に楽屋に入って来たのは他でもないこの作者ありった。

 時は191713日である。という説と、其の年の3月のエンピレー劇場での披露である説とはつきりしない。それに、コントウルシが付けた詩の歌い始めの“ペルカンタ・ケ・メ・アムラステ(あの女に捨てられて、、、)”の言い回しに作曲者カストリオタは同意せず、ガルデルが二人の仲を取り持ち、名付けられた題名が即ち“ミ・ノーチェ・トリステ”に落ち着く事に成る。

 そして、本格的歌唱タンゴの誕生と成るのだが、ガルデルとコントウルシので出会いと“この詞”を彼に見せた時期が半年前のコントウルシがモンテビデオで活躍していた頃(とすると最初の本格的歌唱タンゴもウルグアイ生まれ)。

 だが、ガルデルはこの“タンゴ”を何故か公衆の前で歌う事を躊躇していたらしい。この“ミ・ノーチェ・トリステ”こそが歌唱タンゴの最初の幕上げをした事実は揺るぎの無い証拠だが、それ以前に歌唱タンゴは存在しなかったといわれたが、ガルデル自身のレパトリーも民謡風の歌唱が多く、最初の頃のアンヘル・ビジョルドの歌やアルフレッド・ゴビ夫妻の歌などがある。

 しかしながら、この“詞”は今までに存在した全てのタンゴとは描写も違い、コントウルシは強い男(弱い?)の主人公が失恋に会い初めての孤独、落胆、嘆き、痛みをこの詩に与え大筋の成功をする。

 怪しい悩殺な会合の舞台において栄えた、ごく初歩的なうんざりしたタンギート“ラ・モローチャ”か平坦な終わり無き情景に登場する“ガゥチョ”がアルゼンチンと、この時期のヨーロッパ人の一般的イメージであり、“ミ・ノーチェ・トリステ”は全たく見解を瞬きする如く変化し、本質的市民の鬱積を暴き、都会生活がそれを描写形成した姿を表現している。

 ここでの参加者はその周辺にもうパンパも無く、それは各都会の住人各々のドラマ化が正面化する始まりである。多分、そこにコントウルシ・スタイルでは以前に実存した詩作とは本質に主張を分ける。

 例えば、アンヘル・ビジョルドが歌う“カンタール・エテルノ(永遠に歌う)”の初歩的、詩的霊感で表現をしたのでは無く、パスクアル・コントウルシは純粋で最初の『ルンファルドの世界』を描写したのが、この“詩”であり、異なるタンゴの誕生と成る。

 では、この“詩”の世界を覗いて見よう。序幕は“我が夜の悲しき”は不快な“ひも”タイプの主人公が愛しい抱え“女”に見捨てられる情景から始まる。

 隠語体系“ペルカンタ(女)”を論じを企てるのは別として、

しかしながら失なった愛と孤独の苦悩をこの“歌”は単純に表すだけで、

ドラマは同様な条件で男は単に苦悩し、                                                    

愛の悲惨をタンゴに永遠のテーマとコントウルシが発見した事を我々は受け入れる。

 この作品に後を追う様にして雨の後の『竹の子』の如く、この様な“ルンファルド”の世界を描写したタンゴが表れる事になる。コントウルシ自身の作品の“フロール・デ・フアンゴ(泥濘の花)”、“イベティー”、“ケ・ケレス・コン・エサ・カラ(その顔で何が欲しい)”、“エル・モティーボ(動機)別名ポブレ・パイカ(悲しき女給)”、“シ・スピエラ(ラ・クンパルシータ)”、それに続く他の作詞家の名曲タンゴのサムエル・リニング“ミロンギ‐タ”、セレドニオ・エステバン・フローレス“マルゴー”、フランシスコ・ガルヒア・ヒメネス“ソロ・グリス(銀ぎつね)”、マヌエル・ロメーロ“パテトロ・センティメンタル(悲しき遊び人)”、セレドニオ・エステバン・フローレス‐ガルデル“マノ・ア・マノ”などが登場する。
 ガルデルはタジーニ商会の『コンロビア』レーベルから契約切れで自由な身であった時に、好都合な話がマックス・グロクッスマーン商会からのレコード録音の提供があり、上記した作品群を19174月から『ナシオョナル‐オデオン』レーベルに録音した。

 まず初めに、“ミ・ノーチェ・トリステ”が最初の本格的歌唱タンゴとして彼の32曲目に、他の作品と共に録音される事になる。
 しかしながら、ガルデルはこのタンゴ『ルンファルド』に平行して、ビジョルド、ベティノティ・タイプも見捨てずに唄い続けていくが...

 (パスクアル・コントウルシの他作タンゴの協力者は次の通り、①作曲:アグスト・ヘンティレ、②作曲:ホセ・マルティネス、③作曲:E.コスタ‐J.ロカ、④作曲:エドアルド・アローラス、⑤作曲:フアン・カルロス・コビアン、⑥作曲:ヘラルド・マトス・ロドリゲス、など。なお“ミ・ノーチェ・トリステ”は1918年2月2日に国立図書館に正式に版権登録されている)

2014年9月10日水曜日

軍事クーデター遭遇の思い出

 「サンティアゴに雨が降る」は1973911日に南米チリーで起きた軍事クーデターによって崩壊した「人民連合」政府とサルバドール・アジェンデ大統領の運命をドキュメンタリータッチに描いた映画である。監督・脚本は政治亡命したエルビオ・ソトーで音楽はモダンタンゴ作曲家アストル・ピアソラの作品が採用されている。

 主テーマ曲の「サンティアゴに雨が降る」はアグスト・ピノチェ―ト将軍率いる軍部が反乱を起こした知らせをアジェンデ大統領親派が地下ラジオから流した暗号である。

 映画は重戦車がキャタピラーの音も激しく進撃していくシーンで始まるが、このシーンや工場地帯の激しい銃撃戦を見て映画は映画だなと感じた。(当時チリー陸軍はこの様な大きな戦車を所有していなかつた筈である)。

 工場地帯の対ゲリラ戦の激しい戦闘場面に流れるアストル・ピアソラ作のテーマ曲はシーンにはそぐわないほどロマンチックに聞こえてくる。激戦地化した市郊外の工場地帯らしい町の風景もかなりチリーの雰囲気とはかけ離れているのだ。その上、脚本家ソトーはアジェンデを英雄的に美化しすぎている。大統領府内では彼はフィデル・カストルから贈られた自動機関銃で武装していたし、重装備で完全武装した100人余りの私兵もいた。民主的選挙で選出されたはずの平和主義者アジェンデは獰猛な正体を現したのだ。

 この事件は今年で丁度41年を迎えるが、私はその時期にチリーのサンティアゴから太平洋側の避暑地ビニャ・デル・マールに危険を避難するつもりで来ていた。事もあろうにクーデターはすぐ隣町の軍港バルパライソから起こされたのだ。今でもその時の生々しい現象を記憶にとどめている。

 二、三機の戦闘機が急降下体制で大統領官邸モネーダ宮殿に爆弾の雨を降らしていた映像を映す白黒テレビの画面を見ていた。その日の早朝はサンティアゴには雨ではなくロケット弾と機関銃の銃弾が降っていたのだ。

では当時の記憶を呼び戻してみよう。

 『その日の朝7時ごろ私はビニャ・デル・マール鉄道駅から一駅目のチョリージョ街の雑貸店二階に借りていた小部屋で目を覚ました直後に上階の住人のハンガリー系ユダヤ人に起こされたのだが…  何事かと聞くとゴルペ(クーデター)だという。この軍事クーデターはピノチェット率いる陸軍と海軍、空軍及びカラビネーロ(騎兵隊)と呼ばれる警察軍が合同でアジェンデ左翼連合政権に対して起こした軍事クーデターであった。かれこれ2ケ月前のサンティアゴは左翼政権の先導した労働者たちのデモや私立大学の学生による政府政策に反対するデモで市内中心地は混乱していた。その隙を狙うか如く一度目のクーデターは蜂起されたのだ。その時は装甲車一台が大統領官邸に向かつたが官邸前のバリケードと重装備に武装した護衛兵に阻止され為に不成功に終わった。

 しかし、何時か本格的クーデターの蜂起が予測されていた事で“やったか”と一瞬頭に横切る。テレビの映像はモネーダ宮殿を低空に飛んできた戦闘機の爆撃による黒煙がもうもうと立ち上る様子を映していた。

 既に近辺の街も何処からともなく現れた重装備の海兵隊があふれていた。アパートの下の街路にも戦闘着とヘルメット姿の数名の水兵が機関銃を山側の貧民窟に銃口を向けそろえていた。一人の若い水兵に近付いて何故銃口を丘側に向けるのかと訊ねると彼は余り近寄るなと平静な様子で警告しながら、あそこはゲリラ同然の集団の棲家が密集しているからだと早口に説明してくれた。

 ラジオがなにやら喚いているので三階の友人に尋ねたら外国人は近くの警察暑に出頭しろという勧告である。そこで、まず行動したのは大家さんに同行してもらい友人と彼のチリー人の妊娠中の奥さんと警察署に行く。出てきたのはカーキー色の制服姿も凛々しい若い将校軍人が我々と面接したが、その将校と大家さんがなにやらやり取りしていた後で私達はパスポートの滞在ビザと身分証明書の提示を要求されたが、不思議な事に何も聞かれなかった。“すぐに家に帰り、外出をするな”といわれただけで放免してくれた。 
 

 その日の夜遅く近くからダッ...ダッ..ダッと機関銃の掃射音が聞こえた。それは近くの川の堤防あたりらしく、翌日ゲリラ風数人の死体が見つかったという噂を聞いた。翌日は朝早めに起きてビニャ・デル・マール市からバスで20分ほどの港街バルパライソに出かけた。巷にはドイツ人かユダヤ人風の品の良い顔立ちの老人男女が数十名不安な顔つきで警察署らしき建物の前で行列をしていた。彼らも外国人出頭命令に呼び出された人達であった。
 往時のチリーにはキューバ、ボリビアやペルーの南米各地からアジェンデ政権を援助するゲリラ訓練された尖鋭な外国人雇兵が続々と集結していた。彼らはアジェンデが企んでいた内戦を後押しする為にフィデル・カストルが派遣した戦闘員であった。

 翌日12日。ラジオから戒厳令と午後4時過ぎは市民の外出禁止条例が発動されていた中に友人を探しにバルパライソ港に近い余り環境の良くない風俗臭い安ホテル街に急いだ。       

 パックパッカー旅行者I君が黄疸症状らしい様なのでサンティアゴの駐日本大使館の医師に診断してもらうために同行する約束があったからだが、戒厳令で全ての交通機関はマヒ状態で首都サンティアゴ行きは不可能であった。やっと見つけた友人I君をやむなく急遽に受け付けてくれる市内北側に設けられた海軍病院に連れて行く、数名の海兵隊が機関銃を構えて正面入口は厳重に警備をしていた。患者はすぐに診察室に通されたが付添はI君に寄り添う一人の女性だけ許され、小生は病院内に入る事は許可されなかった。そのまま彼と再会は出来ず、彼の消息は途切れたままになった。
 そうこうして居る内に所持金が底に着いてきたのだが、この騒動時で闇ドル交換所は捜査の手が入り闇相場は消滅していた。ともかく金の工面をするためにサンティアゴに行きを決行する。サンティアゴ市の下町から東へ行くとアンデス山脈を目の前に迫る高級住宅地にたどり着く。広大なアジェンデ大統領私邸近くのアポキンド街のしゃれたマンションに盲目の年老いた伯母さんと住むチリー人の友人ラウルを訪ねた。

 彼に数日間宿泊を頼んだら快く承知してくれた。小生の寝どころ用にソファーを用意してくれた。メルクリオ新聞の広告にチロエ島のフリーゾーンで買ったポータブルラジオとあまり調子よく動いてくれないカセットレコーダ―を売りに出したら、すぐに一人の青年がそれらの品物を見せてくれと尋ねてきて商品を買ってくれた。ただし幾らで商談をまとめたのか記憶にない。その金でブエノスアイレス行のバス乗車券を支払った。

 反乱側についた外国人や政治犯容疑のブラックリストに載るチリー人達が逃亡するのを防ぐ為に空港や国境の軍施設できびしい監視の目が張り巡らされているとの忠告に従い、私は移民局へ行き職員の一人であるラウルの若い叔母さんに助けてもらい無事に移民官から出国許可スタンプを押してもらった。これで安全は確保されたのだ。
 外出禁止令は夕方6時になり市民は駆け足に帰宅する姿が見られたサンティアゴ市内のアルマス広場やディセポロ作のタンゴで有名な「メルセー寺院」の前などを横目で戒厳令下の町を通り過ぎ、バスに乗ってラウル宅に急いだ。  

 平和そうな町の様子の裏腹に実際にはクーデターが起きた日からアジェンデ派戦闘員たちは地下に潜った。秘密ラジオ放送局から「サンティアゴに雨が降る」の暗号メセッ―ジによりゲリラ戦蜂起を開始したのだ。夜間の暗闇を利用して大統領府モネーダ宮からわずか2㎞ほどの近距離にあるキンタ・ノルマル公園の隣にあるサンティアゴ国立大学や市の南サン・ベルナルド地区の工場地帯では映画シーンその物のゲリラ戦に軍隊が投入されて激戦が繰り広げられたらしい。また、国立サッカースタジアムには政治犯や極左翼親派と見なされる人物達千人余りが逮捕収容されていた。その中には反戦歌を歌うフォルクロール歌手ビクトル・ハラもいた。挙句の果てに外出禁止時間外の町をのこのこ歩いていた日本人パックパカーが一人ぶち込まれて居たのを噂聴きしたのだが(大使が釈放するように毎日スタジオに通ったという噂も聞いた)。 

 ここでのんびりしていると何かのトラブルに巻き込まれかねないので早急にチリーを離れる決心をした。封鎖された鉄道駅の隣にあるマプチェ・バスターミナルからバスでチリー国境のアンデス山中にあるトンネルを抜けてアルゼンチン側の都市メンドサに向かつた。
 途中数か所の軍検問ではバスを下ろされる命令に従いパスポートをチェツクされたり、なにがしかの質問に答えたり、特に不審者扱いされずに済んだ。まだ雪が覆われたアコンカグア峰を左横に見ながら、アンデス山脈を下るバスは8時間余りでメンドサの町に滑り込んだ。

  やつと地獄のようなチリーを脱出したのだと安心感に浸つたのである。時は197311月、南米の初夏の頃であった。』

 *    
 そして、時はたち、数十年後(最近)バルパライソで知りあつた日本人数人の一人I君のブログを偶然発見したが今日まで彼の消息を確認していない。I君のブログ文の一部を下記に載せたので参考にしていただきたい。

 【9月11日(火)・・入国61日目(交換義務金1220ドル、所持金1260米ドル)・・今日は、福岡さんが知っている医者(サンチャゴ)のところに行く予定だ。小便をしに廊下にでる。一瞬たじろんだ。いつもは誰もいない、狭くて薄暗い廊下に、人が多勢いる。彼らは一斉にぼくを見た。誰もなにもいわない。トイレから帰り際、彼らを観察した。
 男たちは十数人。毛布をひろげて、そのうえでカード遊びをしている男、カーテンの脇から外を覗いている男、携帯ラジオを耳にあてている男。灰色の作業服に長靴の男たち・・・。
 彼らが、なぜここにいるのだろう。突然、『バーン』と爆発音が聞こえた。男たちは、一瞬ひるんだ後、窓からこっそり外をうかがっている。

 部屋に戻っても、彼らのおびえた目つきが気になる。
ガラス越しに外を覗く。ドラム缶にゴミをくべて暖をとっている労働者も野菜を少しのせた荷車を引っ張っている少年の姿もない。新聞売りの『コレヒヨ、コレヒヨ』の呼び声もなければ、石畳の鋪道を掃くじいさんも会社や工場に急ぐ人々もいない。ときたま動いていたクレーンも長いアームをたれたまま。すべてが止まっている。福岡さんは、何時に迎えにくるのだろうか?

 どのくらい寝たのだろうか? ドアが激しく叩かれた。尾崎とグローリア、セシリアも一緒だ。
「ゴルペよ」

「ゴルペ!」

「何をぼんやりしているんだ。クーデターだ。クーデターが起こった」

やられた。ついに起こったか。まだ大丈夫だろうと心の底のどこかで楽観していた。

「急いで!」

「どこに行くの」

「プエルトよ」

 「サンチャゴで起こったんだろ。ここは安全じゃないの」

「なに言っているんだよ。クーデターはこの街から起こったんだぞ」

「いま何時?」

「10時40分」

「急いで、貴重品だけまとめて」

「もうすぐ戒厳令がひかれるだってよ。誰も町を歩けなくなる」

 彼らの慌てぶりは普通ではない。クーデターだ。殺し合いだ。街角でいつ撃ち合いが始まるかわからない。彼らが、ぼくを呼びに来たのもかなり危険な行動のようだ。ホテル・ヘラスコにいたら町の店はすべて閉鎖のため、食事に困る。どこかに連れていかれてもそれっきり、誰にもわからない。人殺しだって頻繁に起こる。いま安全なのはできるだけ大勢と一緒にいることだ。】 (石原記チリー28項から)

 *      

  図らずも同じ様な境遇にいた二人の体験の違いは明らかだ。全くかけ離れた境遇に出合っている。私は危険な場面にはほとんど遭遇していない。私は彼らのグループから何時も一歩離れて交際をしていたから・・・
 ただし、ある程度は知り得た現地の巷の噂として、また新聞記事で知った情報は彼らに提供はしていた。クーデターが突発した日には情報をある程度は得ていたが、やはり突然で驚いた。そこで考えたのはいち早くチリーから脱出する事であり、実際に行動に移した。

 この文を読んだ人はどうしてそんな所に“のほほんといた”のだろうと思うでしょうね。ただ通りすぎのつもりだった。アルゼンチンに行く為にね。当時のチリーはサルバドール・アジェンデ大統領が統治する善良な社会党などの印象が強いが明らかにキューバ―に援助された共産主義国であった。そこへ何も事情のわからない外国人が入り込んだ。
 そして、外国人旅行者に毎日滞在費として高額のドル交換義務を強制していた。これが果せないためにずるずると蟻の巣に落ちたようにもがいているうちに、起きるべきして起きた軍事クーデター。私は冷静に考えて、クーデターにより倒されたアジェンデを美化しない。共産主義の汚い人民を騙す手段をそこで見た。ピノチェットの軍事弾圧も非人道であったが...


完 

2014年9月6日土曜日

真夏の夜の夢

http://www.youtube.com/watch?v=s6aFjlF72CI
この話は真夏の真夜中のブエノスアイレスの出来事。
 パイカ、グレラ、ペルカンタ(全部キャバレーなどで働く女性)にまつわるほんの他愛の無い経験から、、、

 彼方の日、恋愛小説の主人公の様な無産階級の女達が居た。夜は、彼女達に侮辱的魅力のある名前をつけた。パイか、ロカ、ミロンガ、ペルカンタ、或いはグレラと…

 彼女等によくあうのは、明け方、チュウロとココアの朝食をとつて居る時だつた。コリエンテス通りのコンフェテリア「べスビオ」で。その時間に、彼女らの働く時間が終わるからだつた。チャンテクレル、マラブー、或いはディビダボで...

 南のバラカス地区のマダム・ボバリーのいかれた衝動で、彼女らはタンゴに人生を賭けた。ある女はバンドネオン奏きに恋をして、その賭けを勝ち取る。他の女等はにとつては敗北も沢山あつた。例えば、その同じキャバレーでご婦人達のクローク係りに成り下がり...確か、彼女らはみんな一緒に居なくなる。昔、目に刺青をしていて、今は消滅した少数民族のように。。。

 このタンゴは、そんなグレラ達の最後のひとりを語る者。ブエノスアイレスの夜が明けたばかりの中心街で、幽霊の様に決定的に非現実的な彼女の足取りを発見した。そこでこうして私は物語る...
【ブエノスアイレスの夜は長い。私はある夜、いや真夜中3時頃、タニアが経営していたタンゲリーア「カンバラチェ」を出て直ぐそばのコルドバ大通りのバス停留所で深夜バスの来るのを待っていた。そこにはすでに一人の女性がいた。ここの国の女性にしては小柄で薄化粧で極普通の洋装をした彼女の横顔をちらりと見るとかなりの美貌の持ち主であった。

 ただこの時間に女性一人でバス停にいるのはどこかのバーかキャバレー務めと思われるペルカンタ風の女性だろう。中々来ない深夜バス、そこへ一台のルノーが急ブレーキの音をけたたましく、彼女のすぐ前に停車した。酔いどれの男がガラス窓を下げる。と男はかの美女に車に乗れと小声で言い出したが彼女は相手にしない。男はだんだん声を荒らわにしつこく彼女に迫る。そこでこの私のした事に、ついいたたまれずに下手なスペイン語で“俺と居るんだ”といえばと伝えると彼女理解した様子。

 そこへやっと深夜バスが止まる。男はあきらめてバスの横を闇の中を走り出した。バスの前ドアーから彼女が先に、後を追うように俺も乗る。確か一番前の右側に何気なく座る。バスはいつの間にかリバダビア大通を東方面のエル・オンセ駅に近ずいていた。

 間もなくどこかのバス停に止まると、例の女性が前の乗降口に向ってきた。ふつうバスを降りるのに後ろのステップに向かうはずだが、どうしてだろうと一瞬彼女を見上げると、Gracias(ありがとう)小声で言うのに気が付いた。
 え、と戸惑う俺に笑顔を見せると闇の中に消えていった。この話はただそれだけ、、、のことです。】