2015年2月10日火曜日

ホルへ・ルイス・ボルヘスのパレルモ


ホルへ・ルイス・ボルヘスのパレルモ

幻想的な短編作品を書いた小説家、タンゴの詩人でもあるホルへ・ルイス・ボルヘスは1899824日にブエノスアイレスの中心地ツクマン800番地に生まれた。まもなく家族と共にパレルモ地区セラーノ2100番地に移り住む。そしてボルヘスが描いたパレルモの街とは...

〔パレルモは貧困に無頓着だった。イチジクが影をおいかぶさる壁の上;
平凡な日々に控えめな成り行きのバルコニーの群;
日暮れ時に破裂する落花生の角笛がきえうせ;
つつましい家々は平凡なマンポステリアの鉢もなく;

荒廃したサボテンの群のかんむり

西向かいの 夕暮れの郊外

行き止まり道の埃はなくなりはしない;

そこには鉄道舎の場所 リュウゼツランの枯れ木 

荒れたパンパから ひそかに吹きはじめるそよか風; 

あの一軒の廃居しかかる背のしくい家、鉄柵、低い窓、

時々 -影とともに、時には黄色いござの後ろ- 

ブエノスアイレスの孤独は 生れ見える、
しかし、 見える人間の存在も無い、 

そのあと; 
マルドナードは、 
乾燥したような黄色い深い溝を、 

チャカリータ墓地からあて先も無く背伸びしながら、 

激流の崩れた外ぶちに死ぬほどの喉渇きの激しさに襲われて、

消えそうな農夫小屋の淵に牛を追いたて、 

50年後、その深い不そろいな溝か滅る、 

そして、 空が明けるはじめる; 

柔らかい牧草とたてがみ、いななき、駆ける馬のむれ、

巨大な、高い壁と、それは穏やかな流れを鋼のレールが取り巻き、歩道と直すぐな土手、休息の為の荷車の梶棒、あの酷使された悲しき特異な俗事をぶちまけた労働者達の怒りの境界線、移動中の長い連結の貨車の境界線、その境界をふさぐ、その後ろには、腹立たしく広がる急流。この様に寂しいパレルモ; それはたった今 

ずる賢いカフェティン「ラ・パロマ」の隣で、

愚行溢れる道端に交代され、

果てしなく隙をつかれた遇直なまでの孤独;

埃まみれに混ぜあい切りこまれた平べったい場末、

刑務所の建物と北の赤い墓地との奥くの間、塗りなおされる事も無く; 

何かの残骸の発端に、わびしさと攻撃の街角、 

人目を偲んだ男達が口笛で呼びながら、

幾つかの行き止まり路地の脇をたたきおい散らさんとする、

かの街区は最後の街角のはて。〕

 ボルヘスが1921年の時にスイスから戻って来たパレルモは、もうこの様な場末の面影も、遠くに見渡すパンパも消えうせてなくなっていたはずだ。

近くにはカルロス・ガルデルがデビューした高級キャバレー・アルメノンヴィルやパレード・グラセーなどが出現し、やがて歴史の果てに消えていくと、この街は近代化の波に押し寄せられて、平屋の住宅か中級住宅ビル群が立ち並び始め、北側にラプラタ河岸まで森林が生い茂る広大なパレルモ公園。南方向へは中階層の住宅ビル群が大通りの両傍にチャカリータ墓地の方に立ち並ぶ。西側には郊外へ向かう鉄道線が通過する。市の中心へは地下鉄を利用すれば半時間もかからない。

 小生はブエノスアイレスに滞在した時期に地下鉄B線に乗り終点フェデリコ・ラクローセの前にあるチャカリータ墓地にカルロス・ガルデルの墓標を訪れたのだが、着いたのが午後5時過ぎであった為に墓地の門はすでに鎖されていた。仕方が無いので5Kmほどの東方向にあるパレルモ街区まで歩く事にした。ここは街路に面した5階建て建物が立ち並び階下はパン屋や肉屋、雑貨店などに占領された中級マンションが大通りの両側に何処までも何処までも続いていた。パレルモの町に着いた頃は夏とはいえ日暮が迫りマンションの窓辺には電灯が灯り始めていた。後日、ポンページャ街区のボエド通りを南に行った時にリアチュエーロ河に渡されたアルシーナ橋の手前の踏み切りで、長い連結の貨物列車がゆっくり、ゆっくりと何処かに向かい進んでいく情景を見た。
また、ある日のたそがれ時、市の南西に位置するマタデーロス街区に迷い込んだ。そこは生臭い牛の血の匂いが漂う、高いレンガの壁に囲まれた堵殺場がある。それらの壁が見える脇の通りにあるアルマセン(雑貨屋件飲み屋)に酔いしれている堵殺場の労働者達の姿が出入りする光景が残る場所だった...。

こうしてブエノスアイレスの街中をあちこち彷徨い歩き果ては今は観光地化したカミニートがあるボーカ地区にも迷いこんでいた。当時、カミニートは寂れていた。そこへは入らずにリアチュエーロ河が急カーブした場所。その名“ローチェの曲がり角”を更に進むとペンキ塗装の無い板張りの家々が現れる。そこにも小さなアルマセンがあったが夏の陽ざ日が強い午後の時間には客の姿は見届けられなかった。また来た道を戻り、カミニートの入り口を左側に見ながら歩いていくと「キンケーラ」のボカ美術館がある。ペドロ・デ・メンドサ大通りをニコラス・アベジャネーダ鉄橋が見える方へ、更に行くとタコの茹で料理などの魚介類を出すタンゴに出て来るようなイタリア風カンティーナ(居酒屋件料理屋)が数件軒を並べている。ソリス広場を更に先を進むと鉄道廃線路を横ぎると数百トン級の廃船が停泊したリアチュエーロ河口の廃止された旧港に出る。もうここまで来ると建物も廃墟のようなたたずまい。カンティーナにネオンが灯る夜になれば路上の様子もただずむ人影も怪しい雰囲気になる。この辺にはまだボルヘスの描いた場末があつたのだ。

 

2015年1月5日月曜日

タンゴが発祥した頃のブエノスアイレス


19世紀初め、ヨーロッパが貧困とコレラや疫病から逃げ出したイタリー、フランスの庶民は南米アルゼンチンと小国ウルグアイに流れ辿り着いた。

彼等はブエノス・アイレスの港町ボカやバルバネーラ街で祖国の音楽やダンスを随一の娯楽としていた。

 

タンゴが発祥する初期の頃。

あるカフェティンの店沿いの石畳の歩道通り、

歌と酒のパジャーダ(騒ぎ)が一時終わりについたその時。

 

薄暗いガス灯の灯火に浮かび上がる様に

店の外に出てきた一人の常連の不良仲間が

石畳の歩道に歩み出た時、

その場に起きた嵐の如き激しい喧嘩争いに巻き添えの末、

グループの何者かに鋭い一刃に刺され影の如く崩れ落ちる。

 

その男の名はハシント・チクラーナ。

いや、誰も知らない輩だったかもしれない。

この詩は貧困と異口同音のポンチョ(外套)に隠された

犯罪行為や盗人がカモフラージュした所の

ブエノス・アイレスやモンテビデオの

社会の底層に属す下層階級の人物達の

憎しみ抱く者や喧嘩好きな輩達の陰謀や

欲望により活気ずけられた普遍的リリシズムの失敗をも飲み込んだ世界。

 

それは後進的なリオプラテンセ芸術を描写する産物その物。

それは詮索好きなクリオージョ、

ずる賢い無精者、

優秀な怠け者達のグループ、

“ミーナ(女)”を絞り取る腹黒い売春宿のペテン師達の息ずく世界。

 

いわゆる場末の歌手達とパジャドール達の活躍が引き続く時期の事で、

港町、下町、そこのカフェティンの環境に育まれたミユージック、

初めの頃は歌詞も無く歌われない。 

 

薄暗い街角の広場や歩道脇でバンドネオンやギター、

時にはフルートが混じり奏でる単純な曲に合わせて

男同士か怪しいタイプの女性と踊る不純なダンスが幅を利かせていた。

 

それは所謂、上流階級からは隔たれ蔑み評価されていた場末の音楽。

そこに“冒険好きのトレードマーク”その物のハンカチを

なびかせながら相棒のギターを脇に抱えた若き“アバストのモローチョ”

も偶然にそこに居合わせた時代。

 

さまざまな音楽的ジャンルの中にタンゴが産声を上げたばかりの頃の事である。

社交サロンと闘牛で浪費するカチャファス(やくざ者)、

カフェ・パウリンを遠巻きに立ち尽くす退屈した連中、

粗野な眼差し流しつける物悲しき輩、

空に近いワインをぐい飲みするガジェーゴ、

急ぐことなく、

のんびりと物思いに耽け狭い窓辺に肘付きマテ茶を飲む隣人、

旨そうなアサードと振る舞い酒が常連達を呼び寄せる殺風景な中庭、

カフェティンのトロバドーレスとバイロンゴ達、

人目を引く喧嘩事を解説する輩、

それは日毎の不幸事の歌い手、

場末から湧き出した歌い手、

ごろつき達に無言にも賛意され、

ささやかな人情にもらい涙、

さらに高ぶった夢想的抒情詩が随一の光の中で舞う。

 

そして,好感、微笑み、不屈の、“アバストのモローチョ”はこのやり方で市場のナポリ人達の前で歌う。

 

あらゆる種類の歌い手達を招集させる純銀の流れの様な溢れ出る声を聴きながら、

この様なカフェティン、

不思議なカフェ・オ’ロンデマン、

そこはモローチョが好んだ舞台。

 

リオプラテンセの場末精神と強い混迷芸術の故に生まれ出てきた魔術師的歌手“アバストのモローチョ”カルロス・ガルデルのデビユー時代をボルヘの詩“ハシント・チクラーナ”のミロンガからのモチーフにより詩風的に回想した。

 

『エル・ボヘミオ記』


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